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ここでは、外交文書をはじめとする関係資料を公開しています。和訳が済んでいるものから順次公開していきます。
1937年10月23日付、第6師団長谷寿夫中将宛シャネ神父書簡
正定府 1937年10月23日
正定府カトリック宣教会
師団長閣下
貴軍の正定府への入城後、10月9日と10日の夜に当地のカトリック宣教会で行われた強盗行為についてご承知のことでしょう。
9日の夜7時、我々の司教シュラーフェン猊下をはじめ、修道院にいたヨーロッパ人の宣教師たち全員が連れ去られました。その名前は以下のとおりです。
・シャルニ神父(フランス人、修道院長)
・ベルトラン神父(フランス人、会計責任者)
・チェスカ神父(オーストリア人)*オーストリア国籍のクロアチア人
・ヴァウタース神父(オランダ人)
・ヘーツ修道士(オランダ人)
・ロビアル修道士 (フランス人、トラピスト会士)*実際は神父
・プリン修道士(ポーランド人)
・ビスコピッチ氏(ハンガリー人 、オルガン技師)*国籍はチェコスロヴァキア
シャルニ神父とベルトラン神父は宣教会の南門のところで捕らえられました。それ以外の人たちはシュラーフェン司教とともに食堂で捕らえられました。全員が、まるで犯罪者のように後ろ手に縛られ、目隠しをされました。
それから2人の兵士が、中国人の神父に案内させて会計係の神父の部屋に行き、窓を壊して侵入し、略奪をはたらきました。
10日の夜、9時から11時に、他の5人の兵士が複数の神父の部屋を荒らしました。被害額は分かりません。
私がこれらの出来事を知ったのは10日後のことで、正定府には昨日(10月22日)ようやく到着した次第です。上記の他に略奪の詳細が分かりましたら、すぐにお知らせいたします。最も急を要するのは人命の救助であり、連れ去られた人たちの内2人は病人でした。
人道の名において、また日本軍の名誉を宣教師たちの死によって傷つけないためにも、彼らが解放されるようお願いいたします。犯人も被害者も、見つからないはずがないと存じます。
本件について、師団長は十分にはご存じないのではないかと考え、本状を認める次第です。連れ去られた宣教師たちの身の安全と解放のために必要な手段を取ってくださることと信じております。
敬具
宣教師:シャネ
1937年10月24日付、駐華フランス大使宛シャネ神父書簡
正定府 1937年10月24日
大使閣下
10月9日、10日に正定府のカトリック宣教会で起きた悲しい出来事について、すでにご承知のことと存じます。私は本件を知ってすぐにモンテーニュ司教に手紙を送りましたので、司教から知らせがあったことでしょう。また、私自身は通行許可証を得られず、そちらに伺えなかったため、代理として行かせたフォンケ神父からもお聞き及びになったことと思います。
本状では現地調査の最初の結果として、人的被害に関することをお伝えします。物的被害については後日お送りします。緊急性はそれほど高くありませんから。
大使閣下は我々の唯一の希望です……。この誘拐事件について、私はありえそうな仮説を立てることができず、事件が完全な沈黙に包まれているために最悪の事態を考えてしまうのです。
昨朝、添付のとおり谷師団長に手紙を送りましたが、おそらく彼を動かすだけの力はないでしょう。大使館の方が急いで来てくだされば、大使閣下、より大きな意味をもつことと思います。車でここまで来るのに障害はありません。移動の手間と労力に見合う問題かどうかは、どうぞご自身でご判断ください。しかし、我々はみな閣下のご来訪をどれほど有難く思うことでしょう。
宣教会は当初、混乱の極みでした。私は少し秩序と落ち着きを取り戻させました。現在の軍の行状は良好です。修道女たちが苦しめられたのは爆撃のみです。
敬具
シャネ神父
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正定府 1937年10月24日
【日本軍の入城後、正定府のカトリック宣教会でなされた強盗行為についての報告】
これらの行為は、とくに9日 土曜と10日日曜に行われました。私が知らせを受け取ったのは17日日曜の晩になってからです。それから3日間は北京に報告に行くための通行許可証を申請しましたが許可を得られなかったので、正定に自転車で向かい、22日の晩に到着しました。
以下は現地調査の結果です。
〈人的被害〉
9日土曜の正午、便所の肥だめに通じる開かずの扉から、2人の兵士が修道院の裏庭に侵入しました。この扉は宣教会と大寺院を隔てる壁にありますが、彼らによって壊されました。2人は病気のニャン (アルベリック)神父の部屋に行き、食事を取り上げたうえ、乱暴に服を脱がせてほとんど裸にし、服を中庭に投げ捨て、神父を部屋から追い出して部屋にあるものを略奪しました。
そして、来た道を通って立ち去りました。
1人の将校が宣教会にやってきて、扉 をふさぎ、兵士がそれに触れることを禁じる貼り紙をしました。しかし、効果はありませんでした。
同じ日の夜6時から7時の間、シャルニ神父とベルトラン神父は、壁を乗り越えていたるところから入って来る数多くの兵士たちを押し返そうとしていました。両神父はそのうちの数名から南の正門を開門するよう要求されましたが拒否しました。しかし、彼らはトラックを横づけして壁をよじ登り、神父たちを門番部屋に監禁し、門を開いて外にいる仲間たちを中に入れたのです。
兵士たちは中庭に侵入し、食堂に行きました。午後7時で、修道院の全員が夕食のため集まっていました。賊はまっすぐシュラーフェン司教のところへ行き、目隠しをして(そのための布を持参していました)、後ろ手に縛ったのです。そして、その場にいる他のヨーロッパ人たちにも同じようにしました。
それは、チェスカ神父(オーストリア人)、ヴァウタース神父(オランダ人)、ロビアル神父(フランス人、トラピスト会士)、ヘーツ修道士(オランダ人)、プリン修道士(ポーランド人)、ビスコピッチ氏(たしかハンガリー人だと思う、オルガン技師)でした。
賊は目隠しで前が見えない司祭たちを両側から囲み、大門ですでに捕まっていたシャルニ神父とベルトラン神父も一緒にして、修道院の外に連れ出しました。以後、消息はまったく分かりません。
生きているのか死んでいるのか……。
なにか非難されるようなことをしたというのだろうか……。なにを……。我々にはなにも分かりません。
その他の犠牲者は、私たちの印刷所の所長です。城門で日本軍を迎えるため行進する人たちを見ようと、所長は宣教会の正門を出ました。すると1人の兵士が彼に向かって1発目の弾を撃ち、所長は軽い怪我をしました。彼はそこで跪いて命乞いをしましたが、2発目を心臓に受けて即死したのです。私たちの孤児の1人であり、片方の足が不自由で無害な男でした。野蛮で無意味な殺人です。
修道女たちのところには多くの砲弾が飛んできて、そのうちの一つが避難者たちのいる小さな家で爆発しました。女性1人と子ども2人(3歳と12歳)が即死し、ほかに女性1人が大けがを負いました。おそらくは助からないでしょう。
砲弾はたまたま飛んできたのでしょうか。しかし、大聖堂を除けるどころか、むしろ砲撃の的にしていたように思われます。というのも、ほぼすべての砲弾は大聖堂のすぐそばに落ちていたからです。
〈フランス国旗への侮辱〉
フランス国旗は学校から引きずり下ろされ,(野営)便所に捨てられました。
1937年10月26日付、モンテーニュ司教宛シャネ神父書簡
正定府 1937年10月26日
司教様
依然として行方不明者の消息はつかめず、私はこの完全な沈黙が不安です。身代金目的の誘拐ではないかと思うのですが、それならばもうなんらかの打診があってしかるべきです。
私はここに着いた翌日、フランス大使に手紙を書きました。最初の報告書も送りました。司教様は大使と密に連絡を取られているはずですから、すでにご存じのことと思います。
谷師団長にも手紙を書いたのですが、返事がありません。
北京でなされたことを知るのには時間がかかります……。私たちの唯一の希望が、北京での外交交渉です。ここでは私たちはまったく無力です。
私の最初の手紙はまもなく戻ってくるのではないかと思います。そして、ぐずぐずしないようにと言い聞かせたフォンケ神父も……。私には道中で難儀なことがあったかどうかも分からないのですが……。
今は郵便局がまた動くようになったので、こうして手紙を出しています。でも、お手元に届くまでにどれほどの時間がかかるでしょうか……。
ここは今落ち着いています。みな少し気持を緩められるようになりました。でも、これまでに見たことのない恐怖と混乱がありました。
私が見かける日本兵たち、とくに将校たちはとても礼儀正しいです。その分、正定府に入城した当初の野蛮な振る舞いは理解できません。
私がふさぎの虫に取りつかるようなことのないように、どうか時々お便りをください、司教様。私は傲慢にも自分が修道院の精神的支柱だと思っているのです……。そして、ここの人たちの気力を保つために、まず私自身が気を落とさないようにしなければいけません。今すぐどうこうというわけではないのですが。
敬具
ルイ・シャネ
1937年10月26日付、デ・フォネック神父証言記録
北京 1937年10月26日
【記録】
正定府の宣教師たちの誘拐事件について
デ・フォネック神父の訪問
本日午後、モンテーニュ司教の訪問を受けたところ、河北省中心部の武邑教会の主任司祭である、オランダ人のデ・フォネック神父が一緒でした。
同神父は10月17日に、正定府のシュラーフェン司教とその他の宣教師の誘拐事件を知り、自転車と船を使って、また日本軍や中国の不正規軍を避けてなんども遠回りしながらシャネ神父のいる定州に行き、それから保定府、天津を経て、汽車で北京までたどり着きました。
その報告は次のとおりです。ある中国人のキリスト教徒で、事件を目撃した他の数十名の中国人の多くからも報告を受けた者が、デ・フォネック神父に伝えに来たところによると、10月9日の夜、日本軍の前衛部隊 に属する朝鮮人、満洲人、モンゴル人の兵士(*実際にはこのような多国籍部隊は存在しない)が多数(数は不明)、軍服姿で武装して、何百人もの避難者が滞在中の修道院の敷地に入ってきました。兵士たちは最初にシャルニ神父を捕らえ、門番部屋に監禁して、門の前に番兵を立たせ、それから、修道院で働く中国人に案内させて、シュラーフェン司教と8人の宣教師たちがいる食堂に侵入しました。兵士たちは誰が長上者かを尋ね、シュラーフェン司教が名乗りでると、司教に目隠しをしてから、全員について来るよう命じました。シュラーフェン司教は前が見えずによろめくと、兵士たちは司教の首にひもを付け、引っぱって行きました。そして、宣教師たちとともに外に出ていき、姿を消しました。
10月17日の時点で、誰も彼らの消息を知らず、人々は最悪の事態を恐れています。身代金目的で誘拐されましたが、翌日石家荘で攻撃が再開されたため、交渉ができなくなったのではないでしょうか。犯人たちは進退極まって足手まといの人質を最後の瞬間に殺したか、あるいは猿ぐつわをかませ、手足を縛ったままどこかに閉じ込めて立ち去ったのかもしれません。そうであれば、人質はじわじわ死んでいくことになります。
宣教師たちが誘拐される30時間以上前から町は日本軍に制圧され、略奪や混乱の極みにありました。町の有力者たちの懇願で、日本の司令官は部隊に許可する略奪の期間を8日から5日に短縮しました。
(*司教らが宣教会から連れ出されたのが夜10時半頃とされているが、その30時間前というと、日本軍はまだ正定城の城壁の一部を占拠したに過ぎず、市街に浸透できていなかった。また、9日の占領後すぐに中国人による正定治安維持会が旧県公署に代わり行政を担当、12日には道路の補修工事が始まるなど復旧復興の動きが加速している。軍が中世的な略奪を行った記録はない)
〈会談の間にデ・フォネック神父から得た軍事情報〉
日本軍が制圧しているのは、鉄道と沿線の主要な町だけです。平郷(*旧河北省平郷縣)と清河(*旧河北省清河縣)の間は、河間府(*旧河北省河間縣)かもっと北の地点まで土地の一部が水に浸かっており、中国兵が小さなグループや、ときには数百人にいたるような群に分かれて数多く潜伏中です。多くはまだ自分たちの軍服を着ており、大半が武器を所持しております。奇襲攻撃が容易で、無駄に兵を失いかねないため、日本軍はこの危険な地域には足を踏み入れていません。
1937年11月3日付、駐華フランス大使宛シャネ神父書簡
正定府 1937年11月3日
大使閣下
10月9日と10日の悲しい出来事と、シュラーフェン司教猊下および当日修道院にいたヨーロッパ人全員が突然誘拐された事件については、10月24日に簡単な報告をお送りしました。
今日は閣下に、物的被害についての報告をお届けします。報告の写しは、昨日将校1人を伴って事件の調査に来た日本の憲兵隊長に渡しました。
私たちのところで公式の動きがあったのは初めてです。目撃者たちは自分たちが見たことを話しました。
2人の将校は、事件を「便衣兵」という中国軍不正規兵のせいにすることにこだわりました。たしかにそうかもしれません。私は厳密な意味で日本兵の仕業だと断言したことは一度もないと答えました。人質たちの解放に比べれば、犯人が誰かという問題は私にとって取るに足りないことです……。
日本軍が10月9日の朝から町を占領していて、この日と翌日に将校たちが何度も宣教会に来たことを私は伝えました。また、大寺院を占拠した兵士たちが宣教会との間の扉を壊して、トラピスト会のアルベリック神父に暴行し強盗を働いたので、将校の1人が扉をふさぎ、触れるべからずと日本語で貼り紙をしたこと、しかし命令は守られず、この扉は10日にもう一度壊されて7匹の雌ラバが盗まれたことも伝えました。
作業場 で強盗を働いた兵士たちは、50頭の馬とともに2日2晩その場に留まりました。そして、ダムダム弾10発入りの袋が付いたベルトを残していきました。したがって、日本軍に属している者ではないはずですが、彼らが2日間ここにいた事実から、正規・不正規を問わず中国軍に属しているとも考えられません。
1ヶ月前から宣教会では南門だけを開けていました。南門はフランス学校の門と同様に大通りに面していて、誘拐された宣教師たちはこのどちらかを通って出て行ったはずです。通りには日本兵が行き交っており、気づかれずに通って行った可能性も否定はできませんが、難しいように思われます。そもそも、シャルニ神父とベルトラン神父はこの門で監禁され、そこから犯人たちは侵入したのでした。
私は以上のことを調査員 (*日本の憲兵隊)たちに指摘しましたが、固執はしませんでした。それよりも、行方不明者たちを発見するためにできるだけのことをしてほしいと頼みました。衣服と食料が不足してむごい苦しみに遭っているに違いないからです。シャルニ神父とトラピスト会のロビアル神父、そしてヘーツ修道士は、誘拐されたとき病気で厳しい食事制限をしていましたから、命の危険が差し迫ってさえいるのです。それに、彼らを見つければ犯人のことも分かるのですから……。
日本側に動きがあったのは大使閣下の介入のおかげにちがいなく、みなにかわって御礼申しあげます。
どうぞ今後も無力なわたしたちにご助力を賜りますようお願い申し上げます。
敬具
L. シャネ神父
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【日本軍の入城後、正定府のカトリック宣教会が1937年10月9日と10日に被った物的被害】
10月9日土曜の午前中、個人あるいはグループの兵士がいたるところから宣教会に侵入し、望みのままに盗みを働いた。
台所―卵を調理するよう命令し、ほかにも食物を奪った。2〜3ドル。
消費されたもの―砂糖(50kg以上)、ナイフ、フォーク……20ドル以上。
証人―ラン修道士と料理人。
トゥン神父の部屋―土曜の午前中、神父は部屋にいなかった。ドアが破られ、鍵が壊された。盗まれたのは、カード入れ1ドル50セント、ナイフ80セント、万年筆9ドル、眼鏡1本19ドル、器物損壊5ドル、計35ドル30セント。
ウー神父の部屋―土曜の午前10時頃、最初に1人、つぎに2人の兵士が部屋に入ってきて箪笥や引出を開け、以下の物を盗った。タバコ、電気ライト2ドル80セント、眼鏡2本12ドル、時計の鎖1ドル50セント、ナイフ1ドル20セント、計17ドル50セント。犯人たちは中国語を話さなかった。
パイ神父の部屋―机の中を荒らし、紙幣3ドルを盗った。
チェウ神父の部屋―万年筆11ドルとピグミーランプ(*電球)9ドルが盗られた。計20ドル。
チャン神父、チャイ神父、ミー神父の部屋―犯人たちは金銭を要求し部屋を探索したが、望む物を見つけられず、タバコ数箱を盗るにとどまった。
作業場―土曜の午前10時頃、隣接する家屋の屋根から兵士が1人下りてきて、宣教会の作業場の中庭に入った。兵士は時計工房に行き、まもなく他の兵士3人もやって来た。そして司祭、パウロ会士(*中国人修道院)やトラピスト会士等の修理中あるいは修理済みの懐中時計懐中時計を21個盗んだ。時価200ドル以上。写真機80ドル、ピグミーランプ3つ、1つ9ドルで計27ドル。紙幣17ドル。
ベルトラン神父が現場に向かったが、兵士たちは略奪をつづけ、修理中の大時計をいくつも壊し、交換用のガラス(1グロス 以上)を地面に投げ捨て、足で踏みつけるなどした。最低でも80ドルの被害。
犯人たちはその後、大通りに面していて作業所の中庭に通じるフランス学校の門を開けた。そして、自分たちの馬を2日2晩そこにつないでいた。我々の使用人たちは持ち場がすっかり荒らされたのでその場を離れた。
穀物の袋は動物の餌にするために穴をあけられた。70から80ドル。
印刷・製本所の金庫が壊されて盗まれた。40から50ドル。(印刷所の所長は突然殺された。これについて被害金額を言うことはできない。)
本の束はばらされ、個々の本も乱雑に散らされ、器具を駄目にされた。30から40ドルの被害。
指物工房での損壊―盗まれたり壊されたりした機材、30から40ドル。
ブリキ工房、靴工房での損壊および盗難―20から25ドル。
時計工房での損壊―時計のぜんまい2グロス、精密機器の紛失、電気メッキ電池の損害等、最低でも100ドル。
工員たちの作業着は肥だめに投げ込まれた。パウロ会士の服も同様。100ドル以上の損失。
証人―リ・ラオ・ツィン、指物工房長。
土曜の正午に、2人の兵士が宣教会と寺院を隔てる壁の開かずの扉を再び壊し、裏庭に侵入してトラピスト会士のアルベリック神父に略奪行為を働いた。被害総額は分からない。
同日、司教と他のヨーロッパ人宣教師たちが誘拐された後、1人の兵士が会計係の部屋に自分を案内させ、窓を壊して侵入し、日々の出費用の金庫から盗んだ。500から1000ドル(もっと多かったかもしれない)。また、細かなものをたくさん盗っていった。双眼鏡3台50から60ドル、万年筆、ピグミーランプ2つ18ドル、等々。証人はチャオ神父で、彼も夕食前に預かってそのまま持っていた約100ドルを奪われた。
同じ9日土曜の晩、兵士たちは電動機の部屋に押し入って、配電パネルや配線ケーブルを壊した。30ドルの被害。
兵士たちは終日、避難者でいっぱいの学校に何度も往復し、金銭を要求したり、金庫や袋のなかを探したりして、紙幣や気に入ったものを取り上げた。被害額は見当もつかない。
10月10日日曜―午後2時頃、4人の兵士が寺院に面した壁の扉の一部を再度壊した。これは便所の肥だめに通じる扉で、将校の1人が前日ふさいだところである。兵士たちは厩舎に行って4人の使用人をつかまえ、扉を完全に取り壊すよう命じた。そして、板をもってこさせて肥だめを覆い、厩舎で奪った7匹の雌ラバにその上を渡らせた。この7匹の被害額はおよそ1200ドル。
証人はトゥン、チュン、タン、トゥン・ラオ・ムオ。
同日晩の9時から11時に、兵士たちのうち5人が戻ってきた。チャイ神父はそのうちの1人に見覚えがあり、前日に司教と宣教師の計10名が誘拐されたとき、自分を脅し殴った人物だと思った。それは背が高くて屈強で、中国語を流暢に話す男であり、他の男たちは中国語が分からないと言っていた。3人の兵士が見張りに立つ間、他の2人がチェスカ神父とフォンケ神父の部屋の扉を壊して中に入った。彼らはそれぞれの部屋を念入りに物色し、取るつもりのないものはすべて床に落とした。
チェスカ神父の部屋では、地区会計の金庫から少なくとも300〜400ドルを盗り、ありとあらゆるものを手提げカバンに詰め込んでいった。その総額はチェスカ神父にしか分かるまい。カリス(*聖杯)とチボリウム(*聖体器)もいくつかなくなったようだ。
フォンケ神父の部屋では聖器は盗られなかった。オランダの葉巻数箱と様々な物が盗られたが、証人たちには正確なことは分からない。
爆撃による被害――大聖堂はとくに狙われたようで、砲弾5発が当たった。塔の1つには穴があいた! 櫓の1つは屋根が取れ、他にも被害がある! 交差廊の十字架と棟木が吹き飛ばされ、その窓と大窓はほとんどすべてのステンドグラスがなくなった。2つの香部屋はひどく損傷を受けた。足場を組むだけで何百ドルもかかるだろう。被害額は足場代を除き、ステンドグラスを含めて最低1000ドル。
その他 ― 時計塔の屋根がなくなった。学校の棟木も被害を受け、フランス学校の梁間が損傷した。修理費は総額で300から400ドル。
修道女たちのところでは、直径の大きい砲弾が真新しい建物で爆発したが、幸いに人がいなかった。屋根裏2区画分が完全に壊れ、他の2区画も大きな被害を受けたほか、2階の強化セメントの梁2本も曲がり、修復不可能。修理費は1000ドル以上。女子学校の1階にも砲弾が落ち、ベランダや壁の一部が壊れて、建物自体の安定が大きく損なわれている。修理費300ドル。ほかに3つの小さな中国家屋も壊された。200から300ドル。
総括 ― 避難民への強盗行為を勘定に入れないとして、修道院での窃盗および器物損壊の被害額は2500ドルをくだらない。盗まれた家畜の価値が1200ドル。爆撃による被害は我々のところで1600から1800ドル、修道女たちのところでも同程度。
総合して7000ドル以上の被害。
L. シャネ
1937年11月18日付、駐華フランス大使宛ラコスト書記官書簡
北京 1937年11月18日
在北京フランス大使館書記官
フランシス・ラコスト
駐華フランス大使 在上海
ポール=エミール・ナジャール閣下
正定府の宣教師誘拐について
シュラーフェン司教および多数の宣教師が、10月9日に正定府で誘拐された事件について種々の通信でご報告申しあげましたが、10月24日と11月3日にフランス人のラザリスト会士シャネ神父が本件で大使館に送った手紙2通の写し、および10月26日に同神父が北京の代牧区長モンテーニュ司教に送った手紙1通の写しをここに同封いたします。
シャネ神父は(原註)保定府と正定府の間に位置する京漢線沿いの町、定州に住んでいて、10月9日の事件を17日になって知りました。最初は北京の代牧区長に知らせに行こうとしました。しかし、3日たっても日本側から通行許可証を得られなかったため、フォンケ神父に回り道をして北京に行くようにさせ(同神父の証言については10月27日第659号の通信で要約をお伝えしました)、自身は正定府へむかい、22日に到着しました。
原註)北京の公使館区域にある聖ミカエル教会の主任司祭コルセ師が8月2日に脳梗塞で亡くなったことから、シャネ 神父がその後任に就くはずでした。しかし、事件により定州に足止めになったため、最近フランスから戻り、原則として柵欄(シャラ)の神学校の哲学講座担当となっているノヴィオル神父が代理を務めることになりました。
フォンケ神父による口頭の報告や、大使館およびモンテーニュ司教宛の手紙のほかにも、シャネ神父はこれまでに6名ないしは7名の中国人使者を北京に送っています。そのうち2名だけが日本の警察の検問を越えて、正定府の事件についての口頭の報告、およびシャネ神父による署名や日付なしのタイプ用紙の短信をもたらしました。(場所によっては、日本の警察は全旅行者を念入りに身体検査し、靴底や衣服の裏地の縫い目をほどかせることすらあります。)
誘拐事件の一報はこのようにして北京にもたらされましたが(10月23日付け第412号、同日第273号の私の省宛て電報を参照)、つい最近になってシュラーフェン司教と多くの、あるいは全員の宣教師の死亡が知らされました(11月16日付け第468号、同日第301号の私の省宛て電報を参照原註)。
原註)最新の口頭報告によると、町から2km北の地点で炭化した骨や灰、火を半ば免れた四肢が見つかり、そのなかに司教の十字架や何人もの宣教師の十字架、また幾人かの靴もあったということです。
シャネ神父の10月24日と26日の手紙は郵便局から送られていますが、検閲を免れたようで、犯人は日本兵か、少なくとも日本軍の兵だという確信がはっきり示されています―。「……私が見かける日本兵たちはとても礼儀正しいです。……その分、当初の彼らの野蛮な振る舞いは理解できません。」(10月26日モンテーニュ司教宛書簡)
それから数時間後にシャネ神父の11月3日の手紙が北京に届きましたが、今度は日本の司令官が現地で行うと約束した調査を妨げまいとする気遣いを示しています。それまでの手紙で書いたことにはほとんど触れず、証明できること――または第三者に読まれて不都合でないこと――以外は先走って言うまいとしています。しかし、日本軍の兵士以外ではあり得なかったことを示す細かい事実を積み上げています。とりわけ、日本軍が町を制圧した40時間後に、軍服を着た者たちが(24日の手紙では「兵士」としか書かれていません)通りを自由に行き来することや、宣教会の壁を上ったり強奪品を運んだりしやすいようにトラックを持って来ることなどは、日本の兵でなければどうして可能だったでしょうか。
最初の口頭報告はこの点について断定的でしたし、横山少佐(10月29日付け第436号、同日第28号の私の省宛て電報を参照)みずからが私の前で、朝鮮人(彼らに対しては日本の公職の者も軽蔑を露わにします)と満人の「特殊工作部隊」の仕業かもしれないが、これは「日本軍の名誉の問題だ」と言いました。
本件に関して差し上げた種々の通信から、私が日本大使館にたいして書面で措置を取り、またそれにもとづいて口頭で何度も働きかけたことはご承知のことと存じます。
天津の日本軍司令部は当初、現地調査に参加する目的で正定府に赴くことを何人にも許しませんでしたが、横山少佐、および補佐役の田口神父からなる調査団に、天津の代牧(区長)であるド・ヴィエンヌ司教を加えるに至りました。
ド・ヴィエンヌ司教が北京に戻り次第、彼の意見をご連絡いたします。
フランシス・ラコスト
1937年11月19日付、ラマカース神父証言記録
北京 1937年11月19日
在北京フランス大使館書記官
フランシス・ラコスト
在華フランス大使 在上海
ポール=エミール・ナジャール閣下
正定府の宣教師誘拐について
11月18日第711号の書簡につづき、以下にオランダ人のラザリスト会士ラマカース神父による証言の要約をお送りします。同神父は正定府の城壁外にある神学校の責任者であり、そのため市内のヨーロッパ人宣教師たちと一緒に誘拐されずにすんだのです。
ラマカース神父は事件の3日後に正定府に入ることができ、宣教会の中国人司祭や使用人たちの口から初めて詳細な情報を集めました。昨晩北京に到着して私に報告したところによると、犯人は10名ほどいて全員日本軍の制服を着ていたものの、制帽ではなくソフト帽をかぶっていたそうです。そして、2〜3名だけが中国語を話したそうです。彼らは満洲の紅鬍子 (*直訳すると満洲馬賊を指す言葉)という賊だと名乗り、故郷に帰るための金がほしいのだと言いました。彼らに付き添っていたのは日本人だった「かもしれない」のですが、いずれにせよ、全員が日本軍に属していることは間違いありません。
事件から約1ヶ月後の11月10日になって、宣教会の中国人の使用人たちがシュラーフェン司教と宣教師たちのなかば炭化した遺品――靴、数珠(ロザリオ)、聖職帽、司祭服等を持ち帰りました。それらは町の外ではなく中、それも宣教会から2km北(*実際は300m西の天寧寺仏塔付近)で、日本軍が自軍の死者の遺体を多数焼いた広場で見つかったのです。
広場に面した店舗を持つ食堂の主人は、それが10月9日か10日かは定かでないが、晩にトラックが着いて何人ものヨーロッパ人宣教師たちが下りてきたのを見たといいます。彼らが下りると日本兵が銃剣で腹を突き、それから遺体に灯油がまかれて燃やされました。
犯人たちは宣教師を捕らえた後、ほとんど、あるいはまったく金銭が手に入りそうにないことが分かり、通報を恐れて亡き者にしようとしたと考えられます。
ラマカース神父は、正定府で日本兵が行った数多の略奪の目撃者でもあります。
フランシス・ラコスト
1937年11月27日付、ラコスト書記官宛島書記官書簡 添付資料:1937年11月7日付、憲兵隊事件報告
1937年11月27日
北京日本大使館
在北京フランス大使館
フランシス・ラコスト書記官殿
貴殿から、出所不明の中国人により、正定で宣教師が拉致された件の報告を、10月24日および11月8日付で2通受領したことを確認いたしました。また、先程天津の日本総領事館より、事件の報告書を受領したことを返答いたします。報告書は日本軍当局により作成されており、翻訳報告書を当書簡に同封しております。
これを機に貴殿に深厚なる敬意を表します。
駐華日本大使館 書記官
島 重信(森島守人が不在のため)
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1) 1937年10月9日、午後7時15分に、小銃や拳銃で武装し、汚れた軍服のような服装で、帽子を被った中国人約10名が、正定にあるカトリック宣教会の門を開けるよう中国人の門番に要求し、門番は宣教会内部にいた宣教師に報告した。
要求に応じようと宣教師2名が出てくると、中国人数名が門を乗り越え、宣教師を門番の部屋に閉じ込め、両手を後ろ手に縛り、汚れた白い布で目隠しをした。彼らは門を開けて、招き入れた他の仲間と共に敷地の中へさらに侵入し、食堂で食事中の宣教師6名を発見し、縄で拘束した。その後、中国人の使用人に金を保管している場所へ案内するよう強要したが、金を見つけることが出来ず、門へ戻り、宣教師8名を連れて暗闇に消えていった。この時正定の街は日本軍部隊により占領されたばかりで、街全体が無秩序かつ混乱した状態にあり、この侵入者たちがどこへ去ったのか誰も知る者はない。
この中国人の侵入者たちが去った1時間ほど後に、兵士の風体をした中国人が1人、宣教会に来て中を捜索し、去っていった。その際、中国人の世話人に対し、中国人は心配することはないので寝た方が良いという言葉を残している。
2) 10月15日に当宣教会の中国人修道士たちが、町(*定州)の教会にいたフランス人宣教師(中国語でAi-Chen-aheng)(*シャネ神父)に事件を知らせ、同時に地元の治安維持会宛てに、拉致された宣教師たちを捜索するよう請願書を作成した。彼らは上記のフランス人宣教師(現在は司教なき宣教会の指導的役割を担っている)と協議後、あらゆる手段で探索を行いながら、日本軍の駐留部隊宛てには10月23日、11月2日にこの件についての請願書を送り、支援を求めた。拉致された宣教師たちの行方を探す日本軍当局によるあらゆる努力は、いずれも失敗に終わった。
3) 事件時に、侵入者たちは青龍刀1振りと10発のリボルバー用銃弾(ダムダム弾)を現場に残しており、いずれも正定の日本軍憲兵隊が保管している。
4) 日本軍が正定に入城した直後にこの事件が発生しており、その際、宣教会のあった地区に中国兵が相当数残っていたという事実を基に判断すると、この襲撃は街に残留した中国軍の敗残兵による犯行であると推察される。軍を脱走した敗残兵の中には、避難所を求めて2000人の難民が集まるカトリック宣教会の難民の中に紛れている者もある。
1937年11月30日付、ラコスト書記官宛ド・ヴィエンヌ司教書簡
天津 1937年11月30日
天津老西開天主堂
(*天津代牧区司教座聖堂。天津フランス租界外に建設され、これを理由にフランスが租界領域を拡張しようとしたため反対運動が起こり、名目上は共同管理となったものの、実態としてはフランス租界に組み込まれました)
代理大使殿(*ラコスト書記官のこと)
昨晩、(*在天津フランス)領事閣下が私のところに来られて、そちらからの要望だといって10月9日の正定府の事件について報告を求められました。本件によく通じたシャネ神父が報告の準備をしており、その写しをそちらに送ることをふまえて、後述する理由から私としてはいくつかの覚書を送るにとどめます。
正定府の町が10月9日の朝に日本軍に占領されたのは確かです。
日本兵たちは日中、宣教会の敷地に入り、あちこちで略奪を働きました。
本人が私に報告したように、アルベリック神父(老トラピスト会士、病気のため宣教会に送られていました)は日本兵から乱暴な扱いを受け、服をほとんど剥ぎ取られ、部屋を荒らされました。
日中、少なくとも一人の将校がシュラーフェン司教に挨拶に来て、宣教会に被害を与えることはないと請け合いました。
夕方5時から6時の間に日本兵の服を着た10人の男――ただし1〜2人は軍帽ではなく民間人の帽子をかぶっており、また数人は中国語を流暢に話せました――が宣教会の敷地の入口に現れました。宣教会の敷地は中国人修道女の区域、愛徳姉妹会(*ヨーロッパ人修道女含む尼僧院)の区域、学校、そして司祭たちの区域の4つに分かれています。男たちは門番を脅して扉を開けさせると、2人が門の見張りに残り、8人が門のそばにある中国人修道女の区域に入っていきました。1人の信徒がそれを見て、シャルニ神父とベルトラン神父に知らせに走りました。両神父は修道女の区域に行こうとしましたが、見張りの男たちに捕まって門番小屋に閉じ込められました。
8人の男たちは修道女の区域を出て(そこでは誰にも危害をくわえませんでした)、学校と作業場の区域に行き、避難者たちに略奪をはたらきました。
7時を少し過ぎた頃、外国人と中国人の宣教師たちがみな食堂に集まっていたところに(シャルニ神父とベルトラン神父を除く)、8人の男たちが入ってきて、拳銃で脅しながら立ち上がるよう命じました。最初に司教に目隠しをし、腕を縛り、他の外国人宣教師にも同じことをしました。そして中庭に連れ出し、宣教師たちを紐でつなぎました。また、1人の中国人に会計係の部屋に案内させて100ドルほどを盗りました。それから外国人修道女の家に案内させましたが、扉をたたいても返事がなかったので、7人の人質と、正門のところでシャルニ神父とベルトラン神父もくわえて立ち去りました。
この後一行が少し遠回りをしながら、宣教会から西におよそ150mの地点にすぐに到着したことは確かです。そこで宣教師たちは殺され、遺体を焼かれました。数メートル離れたところでは戦死した日本兵の遺体も焼かれていました。拳銃の薬莢がこの場所で見つかっており、宣教師たちが銃殺されたことが裏付けられます。しかし、銃剣も使われたのではないかという話です。
中国人たちは怖がって、11月10日まではこのこと(死と火葬)について誰も口を開きませんでした。しかし、シャネ神父は少しずつ事実をつかんでいきました。そこで現場を調査させて、焼き場が3つあったことを突き止めました。2つは兵士の遺体を焼くため、もう1つは宣教師の遺体を焼くためです。事実、現場の土を掘り返すと、宣教師のものだった数多くの品物が見つかりました。トラピスト会司祭のものにちがいない数珠(ロザリオ)や、聖ヴィンセンシオ・ア・パウロおよび聖ルイーズ・ド・マリアックのメダイ(*メダル状をしたカトリックのアクセサリー)、様々な宣教師の服の一部、チェスカ神父の帽子、別の宣教師の靴、服のボタン等々……。また、頭蓋骨1つといくつかの骨も見つかりました。
以上すべてのことから、中国兵に不可能な犯行であることは間違いありません。
もちろんシャネ神父の報告は、より明確なものとなるでしょう。
私の考えとしては、代理大使殿、これほど明白な事実を否定する日本政府の頑強さを前にして、貴殿の努力は無に帰すでしょう。そこで、私には正しい人と感じられる横山少佐が戻ってくるのを待ち、彼が軍当局との仲介に立つことで、貴大使館やオランダ公使館、教皇使節(*バチカンから派遣されている大司教)への謝罪の訪問といった補償を得る方が望ましいと思われます。聖ミカエル聖堂(*北京の公使館区域にあった教会)での葬儀ミサ、なんらかの賠償金といった補償もありえるでしょう。
私はあまり大きな望みは持っていませんが、賠償金を得られるとすれば日本大使館からではないでしょう。
私および正定府の宣教会は、本件につきオランダ公使とともにご高配を示してくださった貴殿に感謝いたしております。フランスの布教保護の務めは忠実に、徹底して献身的に果たされました。深謝申し上げます。
敬具
ジャン・ド・ヴィエンヌ
1937年12月1日付、R.E.ヒル牧師証言記録
機密
1937年12月1日
北京オランダ公使館
R・E・ヒル牧師の供述書
河北省正定にあるスウェーデン系プロテスタント宣教会の牧師であるR・E・ヒルが、日本軍による正定占領と、それがカトリック・プロテスタント両宣教会に及した影響について証言したものである。
10月7日木曜日、街に対して砲爆撃が始まった。
10月8日金曜日、日本軍は街を激しく砲撃した後、城壁に囲まれた街の包囲に成功した。しかしこの時すでに、残されていた中国兵は撤退していた。(*実際には残置された中国軍が激しく抵抗したため、市街戦が翌朝まで続いている)
10月9日土曜日、日本軍が街に入ってきた。ヒル氏は外に出て、その場面を目撃している。プロテスタント宣教会の敷地内は難民で一杯であり、使用可能な場所は全て使われていた。難民の多くは女性と子供であった。
カトリック宣教会は、宗教や産業の様々な活動の中心であり、1000名以上の中国人が敷地内で生活していた。難民の中でも特に女性や子供にとっては安全な場所でもあった。日本軍の来着以前、中国兵たちは両宣教会に対して何も危害を加えるようなことはなかった。
占領された日(10月9日)の午後、ヒル氏とスピラ氏(*牧師)は市内の仏塔近辺で、異常に大きな炎が立ち上っていることに気が付いた。
占領から数日後、ヒル氏と同僚は、カトリックの宣教師ら9名が失踪し、その内1人はシュラ―フェン司教であることを知った。ヒル氏らは、カトリック宣教会の事務の中国人責任者である、リー・チャイ氏から以下の事を知らされた。
10月9日に日本兵数名がカトリック宣教会に来て、若い女性を要求した。外国人の宣教師たちが、欲しいものは何でも持って行ってよいが女性は渡せないと答えると、日本兵は立ち去った。
午後7時から8時の間に日本兵が戻って来て、発電室を破壊し、外国人宣教師が集まっていた食堂に侵入した。彼らは、外国人が全員揃っているか訊ね、病気で入院している1人以外は全員いるという返事を聞くと、物を壊し始め、宣教師に目隠しをし、連れ去った。その間、リー・チャイ氏は日本軍当局に出かけており、裏道を通り宣教会へと帰る途中に、宣教師が連れ去られたことを知った。それ以降リー・チャイ氏は宣教師ら9名の所在を追跡できないままである。
占領から数週間後、宣教師ら9名を誰にも目撃されずに市外へ連れ去ることは不可能であることが明らかになったので、スピラ氏は友人であるカトリックの学校教師に、仏塔近辺の灰を調べるよう提案した。彼は、日本兵は(習慣として)戦死者をそこで火葬しており、宣教師ら9名も同時に焼やされている可能性があると聞いていた。この提案に沿って追跡調査が行われ、灰の中から十字架、御守、ロザリオ、ペンナイフ、帽子と靴の一部を発見することに繋がった。尋問でこれらは宣教師達の所有物であることが証明された。
この事は直ちに日本側市政担当幹部のHsiian Fu Kuan(*漢字名不明)へ報告された。Hsiian Fu Kuan氏は調査後、遺憾の意を示している。
11月20日(*実際は17日)、ある日本軍将校(*横山少佐のこと)が共同調査のため、カトリックの司教を連れて天津より到着した。両者の間で(事件処理の)結論に至り、追悼の為のミサが行われ、日本軍司令部の高官たち、地元の名士たち、カトリックの指導者たちが参列した。スピラ氏なども招待された。遺憾の意を表す電報(恐らく東京の日本外務省もしくは別の高級機関から)が読まれた。(*弔電は北支那派遣軍司令官、寺内寿一大将から発せられた)
天津から来た日本の将校(*横山少佐のこと)が、ヒル氏の同僚であるスピラ氏に対し、「この犯行の責任はおそらく日本軍の中にいた共産分子にある。もちろんこの行為は現存の軍規に反するものである。そうではあるのだが、この共産分子は軍の一部でもあるので、軍としても責任を逃れることはできないと認めざるを得ない。従って賠償のため適切な措置をつもりだ」と伝えたそうだが、ヒル氏はこのことを確証した。(*「日本軍の中にいる」という発言はラコスト書記官が聞いた内容と異なっており、恣意的な後付の疑いがある)
調査ではヒル氏が、他に宣教師ら9名の死や焼いているところを目撃した者を知っているかどうかが問われた。ヒル氏は、ほぼ確実に何か目撃した中国人がいるであろうと答えたが、この状況下で名乗り出るものがいるかどうか懐疑的であった。
動機に関して、ヒル氏には何も示唆するものがなかった。プロテスタント宣教会に現れた日本兵が女性を要求し、スピラ氏が断固とした態度で拒否した後、二度と戻ってこなかったように、女性を要求し断られたことに対する怒りだけが理由で犯行が行われたわけではない。
最後に、この犯罪は中国の敗残兵により行われたとする、最近の日本側による公式調査結果報告に関して、ヒル氏は確実に問題外であると証言している。犯罪を行った日本兵の中に中国語を話す兵士がいたとしたら、日本軍に雇われた通訳のはずである。いずれにしても、スピラ氏もヒル氏も日本兵がこの犯罪を起こしたということに疑いがない。
目撃者捜す方法などの困難を考慮し、ヒル氏は上記の証言の慎重な使用を希望している。
1937年12月14日付、シャネ神父宛横山少佐書簡
天津 1937年12月14日
天津カトリック宣教会
シャネ神父様
神父様
12月11日および13日の貴殿の手紙を受け取りました。御礼申し上げます。
12月11日の手紙でご提案されたことは、私たちの私的な会話の結果でした。これを天津の軍司令部に諮りましたところ、いくつか変更点がありましたのでご連絡申しあげます。
1) 犠牲者の追悼のため、北京公使館地区にある聖ミカエル聖堂で今月18日土曜に荘厳ミサを執り行う。ミサは正定府の宣教会が依頼し、以下の文言で招待する。「正定府のカトリック宣教会は貴殿に以下の荘厳ミサにご出席いただくようお願い申し上げる。これは1937年10月9日にシュラーフェン司教と8人の同志が亡くなった事件の追悼ミサで、12月18日土曜に北京公使館地区の聖ミカエル聖堂で執り行われる。日本大使館及び日本軍の代表も出席する。」新聞の告知では最後の一文を省く。
日本軍からは花輪を送る。弔電については正定府のミサですでに送っており、2通目は不要であると考える。
2) 日本軍の名で正定府の大聖堂の前に犠牲者の追悼碑を建立する。ラテン語と中国語で以下の文言を刻む「1937年10月9日に亡くなった犠牲者、シュラーフェン司教、〔…… 〕を記念して。彼らは自分の羊のために命を捧げた。日本軍。」
3) 貴殿は12月13日付の手紙で、150,000ドルをベースとする賠償金を提案された。日本の当局は事件の重大さに鑑みて、これを検討する用意がある。
4) 正定府宣教会の修道院長に宛てて弔文が送られ、公表される。
12月11日付の手紙の終わりで、貴殿は2つの提案について書かれました。それについての私の意見をここに認めます。
1) 公式の謝罪訪問に代わって……日本軍高級将校が、フランス大使館及び犠牲者を出した国の公使館、教皇使節に公的な弔問をする。
2) 2つめの提案 は全面的に削除されうるでしょう。
敬具
H. 横山
写しの確認
シャネ
1937年12月14日付、森島参事官宛横山少佐書簡
天津 1937年12月14日
北京日本大使館参事官
森島様
参事官殿
正定府のカトリック宣教会で本年10月9日に起きた悲しい出来事について、日本軍の代表として、同会の代表シャネ神父と会談した結果、以下の具体的な合意に達しましたのでご報告申しあげますとともに、在北京フランス大使館及び本件に関わる公使館使節にご通知いただきますようお願い申し上げます。
1) 犠牲者の追悼のため、北京の公使館地区にある聖ミカエル聖堂で12月18日土曜に荘厳ミサを執り行う。ミサは正定府の宣教会が依頼し、以下の文言で招待する。「正定府のカトリック宣教会は貴殿に以下の荘厳ミサにご出席いただくようお願い申し上げる。これは1937年10月9日にシュラーフェン司教と8人の同志が亡くなった事件の追悼ミサで、12月19日(*18日の間違い) 土曜に北京公使館地区の聖ミカエル聖堂で執り行われる。日本大使館および日本軍の代表も出席する」新聞の告知では最後の一文を省く 。日本軍からは花輪を送る。
2) 日本軍の名で正定府の大聖堂の前に犠牲者の追悼碑を建立する。ラテン語と中国語で以下の文言を刻む「1937年10月9日に亡くなった犠牲者、シュラーフェン司教、〔…… 〕を記念して。彼らは自分の羊のために命を捧げた。日本軍」
3) シャネ神父は正定府のカトリック宣教会の代表として、12月13日付の手紙で150,000ドルをベースとする賠償金を提案された。日本の当局は事件の重大さに鑑みて、これを検討する用意がある。
4) 正定府宣教会の修道院長に宛てて弔文が送られ、公表される。
日本軍高級将校は、フランス大使館及び犠牲者を出した国の公使館、教皇使節に公的な弔問をする。
敬具
H. 横山
1938年1月10日付、駐華フランス大使宛ラコスト書記官書簡
北京 1938年1月10日
在北京フランス大使館書記官
フランシス・ラコスト
駐華フランス大使 在上海
ポール=エミール・ナジャール閣下
正定府の宣教師虐殺について
在上海大使館の記録書類に加えていただくよう、正定府の事件に関連する文書数点の写しをお送りします。事件の最新の状況については本日第18号の電報(本文は第8号として本省に送付済み)に記しております。
文書は以下のとおりです。
1) 在北京日本大使館の森島参事官による12月16日付の手紙。この中で同参事官は、横山少佐から受領した手紙の写しを送って来ました。横山少佐は日本人カトリック司祭の田口神父とともに(及び一時的にフランス人カトリック司祭パトルイヨ師も伴って)(1937年10月29日第283号の私の省宛て電報を参照)、日本軍と北支カトリック宣教会の「和解」を担っており、正定府の事件解決の特命を受けました。現場にド・ヴィエンヌ司教を連れて行ったのも、シャネ神父と示談の基礎交渉をしたのも(私の電報第512号と第513号参照、本省には第326号および第327号として送信)、また12月18日に北京公使館地区の聖ミカエル聖堂で行われた式に日本軍代表として出席したのも同少佐です。
手紙のなかで横山少佐は、シャネ神父との交渉の結果を森島参事官に報告しています。
2) 正定府のカトリック宣教会からフランス大使館及びオランダ公使館に宛てた12月18日のミサの招待状。
3) 12月19日に現地のフランス紙、外国紙および中国紙に掲載されたミサの報告記事(新聞により多少の相違あり)。
4) アヴァス通信社(*現AFP、フランス通信社)が12月19日に現地で発表し、20日にフランスやイギリスの新聞に掲載された記事で、日本大使館の代表者がミサに出席しなかった理由に触れたもの(私の電報第553〜554号参照、本省には第347〜348号として送信)。
最後に、宣教会が正定府で行った調査の最終結果を報告いたします。これはいくつかの点で、私がこれまで折々の最新情報にもとづき通信に記してきたことと相違します。
日本軍が正定城内に入ったのは、10月8日ではなく9日の朝7時から9時でした。市城の中に組織だった中国軍勢力が残っていなかったため戦闘はありませんでしたが、非戦闘員の市民が老若男女を問わず殺されました。
午前9時から日本兵の一団が宣教会に侵入し、略奪を始めました。正午には数人の兵士が80歳をこえるフランス人老神父に暴力をふるい、洋服をはぎとってめった打ちにしました。しかし、この暴力が老神父の命を救いました。神父は医務室へ連れて行かれ、他のヨーロッパ人宣教師たちが誘拐されたときにもまだそこにいたからです。
14時に1人の日本人将校が司教を訪問しました。そして兵士たちの悪行を聞き、壊された扉をふさいで、宣教会のすべての出入り口にここがカトリックの施設であり、敬意を払うべきと日本語で掲示しました。
16時には将校の一団がやってきて、「日本軍とカトリック教会は、中国において共産主義と戦うという同じ目的を持っている。だから同盟を結ばなければいけない。日本軍はカトリック宣教会を保護することにすでに同意している」と言いました。
しかし17時半には、午前にやって来た一団が再び宣教会に侵入し、徹底的に略奪しつづけていたのです。そして19時15分、ついに司教と同志たちは連れ去られました。
現在ではほぼ確かなこととして、宣教師たちは日本の軍法会議が開かれていた寺院へ徒歩で連れて行かれたようです。この軍法会議はとくに、武器所持の有無を問わず市内で捕まった中国兵、および彼らを匿った市民たちを裁いていました。
宣教師たちは夜の10時頃にこの法廷を出ました。そしてトラックに乗せられ、公共の広場に連れて行かれ、私が1937年11月19日第781号の通信(1937年11月19日第197号として本省に送信)に示したような状況のもとで殉教したと思われます。
宣教会に略奪にきた犯人は日本人と満洲人、あるいは満洲人のみのグループだったと考えられますが、間違いなく日本軍の兵士で制服を着ていました。略奪行為を上官に告発されることを恐れて先手を打ち、宣教師たちが中国の敗残兵を匿ったといって訴え出たのでしょう。日本兵が市内に入った時、宣教会の敷地には2000人の避難者たちがいました。
日本軍のスポークスマンは北京での記者会見において、当時の危機的な状況下で「不用意に」避難者たちを保護したことが、宣教師たちにとって仇となった疑いがあるとほのめかしました。また、森島参事官は私に対して、日本軍が町を制圧した後、宣教会が所有する孤児院の窓から軍にむけて発砲があったと語りました。(しかし[*修道会からは]1km以上も離れており、宣教師や孤児たちはすでに逃げた後だったのですが)
私は反論し、もはやその場にいなかった宣教師たちが、所有地に力づくに侵入した兵士の行為に責任を負う謂れはないことを参事官にすぐ認めさせました。
しかし、調査に臨んだ司祭たちも私も、シュラーフェン司教と宣教師たちが軍法会議に出頭したと言う日本人には、民間人でも軍人でももちろんお目にかかりませんでした。私がそのことに言及した時も、それが確かなことだと言う人は一人もいませんでした。
以上が、この痛ましい事件について現在までに集めることのできた情報です。これ以上の事実が出てくるとは思えません。しかし、日本軍の責任を確信させるには十分でしょう。日本の代表たちはこの責任から生じる結果を丸ごと負うことのないよう、口にこそ出しませんが、補償の話で譲歩することにやぶさかではなく、それは彼らも内心で確信しているからです。
1938年1月26日付、ラコスト書記官宛シャネ神父書簡(犠牲者死亡届)
正定府 1938年1月26日
(中国、河北省)正定府カトリック宣教会
河北 正定府 天主堂
書記官殿
1938年1月21日の貴殿の手紙への返答として、私こと正定府宣教会の会計責任者は1937年10月9日の襲撃で以下の者が死亡したことを届け出ます。
・フランス・シュラーフェン司教、ラザリスト会士
出生地:オランダ、ルールモント教区、ロットゥム
生年月日:1873年10月13日
・リュシアン・シャルニ神父、ラザリスト会士
出生地:フランス、セーヌ・エ・マルヌ教区、ムラン
生年月日:1882年11月29日
・トマス・チェスカ神父、ラザリスト会士
出生地:ボヘミア 、ザグレブ市、ブルドヴェック(*ボヘミアではなくクロアチア)
生年月日:1872年5月18日
・ウージェーヌ・ベルトラン神父、ラザリスト会士
出生地:フランス、カンタル教区、オーリヤック
生年月日:1905年8月9日
・ヘリト・ゲラルド・ヴァウタース神父、ラザリスト会士
出生地:オランダ、ブレダ市
生年月日:1909年7月9日
・アントン・ヘーツ修道士、ラザリスト会士
出生地:オランダ、ブラバント地方、アウデンボス
生年月日:1875年7月28日
以上、正定府宣教会所属者。
・プリン修道士(ポーランド)、順徳宣教会所属
・ロビアル神父(フランス)、トラピスト会士
・ビスコピッチ氏、オルガン技師、北京在住
以上の者たちもこの事件の被害者となりました。出生地や生年月日は分かりません。プリン修道士については順徳にお問い合わせください。
上記の全員が1937年10月9日に正定府市内の「木の塔」の下で殺害され、遺体を焼かれました。
私の知る限り、中国の民間当局からも日本の軍部当局からも以上の死亡の証明書は出されておりません。
正定府 1938年1月26日
会計責任者 L. シャネ
宣教師 オリヴェール
1938年1月31日付、シャルル=ルー駐バチカン仏大使宛デルボス仏外相書簡
1938年1月31日
フランス外務大臣
駐バチカン・フランス大使
シャルル=ルー様
正定府の宣教師虐殺について
日華間の武力衝突により、中国のカトリック宣教師たちが直面している危機を表すかのように(9月21日第343号の私の手紙を参照)、河北省南部の正定府代牧区で8人の宣教師が誘拐され、殺害される痛ましい事件がありました。
貴殿はすでにコスタンティーニ大司教(*前駐華教皇使節、1938年当時は布教聖省秘書官)や布教聖省(*各代牧区、知牧区などを所管する教皇庁の官庁、現在の福音宣教省)役人からある程度お聞き及びかと存じますが、駐華フランス外交代表から届いた情報を加えさせていただき、フランス大使館の度重なる介入が本件にもたらした結果についてお知らせします。
これは、フランスが現地の宣教会にたいして伝統的な保護職を果たし、益をもたらしていることの新たな証左となるものです。今後どうぞ好機があれば、そちらでお会いになる高官たちにフランスの貴重でまったく無欲なる奉仕を印象づけてください。
我が国は今もって中国におけるカトリック教会の働きのため、同様の奉仕をするよう求められております。現在この地が置かれている混乱した状況にあって、我が国による布教保護がいかに効果的であるか、そしてこの任務を我々ほど果たせる国は権威においても実行手段においても、また長きにわたってこの分野で役割を果たしてきたという威信においても、他にないことを高官たちに強調してください。
10月初め、正定府の町は京漢線沿いに進軍する日本軍の手に落ちました。通常の通信手段が断たれるなか、フランス大使館は日本大使館をつうじて宣教師の安否を確認しようと努めましたが、正定府の代牧区長であるオランダ人のシュラーフェン司教と7人の宣教師、そして1人の信徒が、日本軍による占拠の翌日10月9日に誘拐されたことは、3週間後になってようやく北京に伝えられました。犯人たちは日本の軍服を着ていたそうですが、それが正規軍なのか、満人兵なのか、あるいは死んだ日本兵の服を取って身につけた中国の賊なのかは分からないとのことでした。
在北京のフランス外交代表が日本大使館に何度も働きかけた結果、軍の当局が正定府で調査を行っていて、参謀本部(*実際は天津の北支那方面軍司令部)の将校(*横山少佐のこと)が特別に現地で指揮を執るため送られたことを11月12日に知らされました。天津の代牧(区長)ド・ヴィエンヌ司教は、調査に参加するため正定府に入ることを認められました。
日本側は最初、誘拐の責任を中国軍敗残兵に負わせようとしており、11月27日には行方不明者の探索が手がかりなしに終わったとラコスト氏に伝えました。しかし、シュラーフェン司教と同志たちが死亡しており、日本軍の兵士たちに殺されたという確証をド・ヴィエンヌ司教は25日の時点で北京に持ち帰っていたのです。
シュラーフェン司教のほかに、犠牲者には代牧区のラザリスト会士が6人います。うち2人はフランス人で、宣教会の修道院長シャルニ神父とウージェーヌ・ベルトラン神父、そしてオランダ人が2人でヴァウタース神父とヘーツ修道士、それからチェコスロヴァキア人(*オーストリア国籍のクロアチア人の間違い) のトマス・チェスカ神父とポーランド人のヴラディスラウ・プリン修道士です。フランス人の犠牲者はほかにも1人いて、正定府郊外にあるトラピスト会ノートルダム・ド・リエス修道院のロビアル神父です。同神父は誘拐のとき宣教会にいて、ラザリスト会士と運命をともにすることになりました。9人目の犠牲者はハンガリー人(*チェコスロヴァキア国籍)の信徒でオルガン技師のビスコピッチ氏です。
現地の軍当局及び公式に調査にあたった者たちは事実を認め、本件の責を負う日本軍の人員が有罪であると認めました。事件の解決について話し合うため、北支のカトリック宣教会と日本当局の相互理解を促進する特任を負った横山少佐が、一時的に正定府の宣教会の指揮を取っていたフランス人のラザリスト会士を天津に召喚しました。
横山少佐とルイ・シャネ神父の間で行われた交渉は合意に達し、日本側は以下のことに同意しました。日本はフランス大使館、及びオランダ、ポーランド、チェコスロヴァキアの公使館に対して公式に遺憾の意を表す。また、正定府に追悼記念碑を建立して「1937年10月7日(*9日の間違い) の犠牲者へ、日本軍」と記す。北京の聖ミカエル教会でシュラーフェン司教と同志たちを記念して行われる荘厳ミサに代表者が出席する。賠償金として宣教会に約150, 000ドルを贈る。そして、フランス大使館を通じて聖座に日本軍の遺憾の意を伝える。
以上の合意は日本大使館からフランス代表へ正式に通知されました。フランス大使館としては、本件の犠牲者にフランス人が多数含まれることのみならず、中国のカトリック宣教会の布教保護という立場にあることも、日本当局および聖座代表に対してたえず強調してきたところです。
追悼ミサは12月18日に北京で荘厳に行われ、日本の代表も出席しました。フランス代表はその伝統的な名誉にみあう席を聖堂内陣に得ました。横山少佐は直後に日本に行かねばならず、帰国後の1月28日にようやく「正定府の痛ましい事件に対する日本軍の深い痛恨の念」をフランス大使館に表明しに来ました。我々の代表はこのような事件が繰り返されぬよう、必要な措置がすべて取られたことを確認するとともに、二度と起こさせないという保証を日本軍から得ました。このことは近いうちに日本大使館からフランス大使館に文書で通知されるはずです。
日本の当局は我々の大使館を通じて、教会の利益を守る外交使節にも挨拶を送り、聖座に対する正式な遺憾の意を委ねました。貴殿が次に教皇庁国務長官や布教聖省長官と会談される際は、この任務を果たされるようお願い申し上げます。
1938年2月13日付、ラコスト書記官宛森島参事官書簡
1938年2月13日
北京日本大使館
在北京フランス大使館
フランシス・ラコスト書記官殿
1937年10月9日に正定で発生し、1937年10月24日および11月8日に貴殿より調査依頼を受け、1937年11月27日付で文書により回答した、貴国の市民であるシャルニ宣教師とその他宣教師8名に関する殺人事件の後報を謹んでお伝え申し上げます。
日本政府により今支那事変に於ける基本方針の一環として、繰り返し公表されておりますように、我が国は第三国国民の人命財産、特に宣教団体に関するものについて可能な限り考慮しております。この方針に従い、本国の参謀本部は、事変作戦地域における現地軍部隊に対して命令を下しております。現地軍は以下にある命令を受けて、これに忠実に従っております。
a. 外国政府により提供された、宣教会施設の所在地が明確に記された地図を、全将校と陸海軍航空隊のパイロットに配布した。
b. 教会の建物及びその他関連施設への進入を禁止する標示は、1938年1月1日現在で1000を超える。
c. 宣教師達の身分証明書が発行され、証明書を所有する者は、移動する際に軍用列車を使用することが認められた。1938年1月1日までに900の証明書が発行された。
d. 宣教師の職務を円滑にするため、数多く紹介状や通達が発行され、各添付資料にあるようにその他優遇措置が取られた。
軍の作戦地域の範囲が広域にわたるにもかかわらず、宣教師の人命財産の安全と保障は、上記の慎重な措置が採用されたことにより守られております。しかし、時にはこの広大な交戦地域で起こる不本意な事件は避けられません。日本の関係当局は、軍が講じた当措置に対し、様々な宣教団体から多くの感謝の表明を受けております。
1937年10月24日付で貴大使館より文書を受領し、事件調査の開始早々、日本大使館では、事の重大性から直ちに権限のある軍当局に通知し、軍も迅速に反応して、当事件が発生した地区の指揮官らに徹底的な調査を行うよう命令を下しました。このような手順で調査は徹底的に行われてきました。
調査の結果、以下の事実が明らかとなりました。城壁都市正定に残留していたのは中国兵数名どころか、相当数の中国軍人が宣教会にいる難民の中に身を隠しておりました。また、私が1937年11月27日付で貴殿に送付した文書に添付の憲兵隊報告書のコピーにあるように、中国兵が敷地内に残した物品が、この犯行は街が日本軍部隊により占領された混乱の最中、中国兵により行われたことを結論付ける証拠となりました。
一方、調査からは、上記以外の結論を裏付ける証拠を見出すことはできなかったことをお伝えいたします。従って、日本政府は本事件の責任を負うことはできず、同様に日本軍が占領する地域で起きる全事件の責任を負うこともできかねます。しかし、日本政府は東洋の平和と安定を切に願っており、シュラーフェン司教並びに他8名の宣教師らが同じ思いで宣教会に献身していたことから、日本軍が交戦する地域において、このような思いがけない不幸が起きたことに遺憾の意を表さずにはいられません。私としましても、日中間の武力衝突の最中にこの様な不幸が起きたことに深い遺憾の意を表します。
上記の内容に基づき、北支那方面軍は、1937年11月22日に正定の被害者の為のミサ(慰霊祭)を執り行うように、横山少佐を派遣したことをお伝えいたします。被害者へ北支那方面軍司令官から、葬儀の花輪と弔電が送られております。今回、軍はさらにその深い同情をもって、被害者に対する弔慰金として総額24000円、正定および中国北部のカトリック宣教会の慈善事業に対する寄付金として総額15000円を提供する決定をいたしました。既にこの金額は1938年1月27日に横山少佐から駐華ローマ教皇使節館秘書官であるコミッソ司教へ適切に渡されております。宣教会関係者からは、日本側当局が事件に対し講じた様々な策についての満足を伝えられております。
さらに、前述のような多くの策を講じたことは、将来における外国人宣教師の人命財産および付属施設を保障するために有効である、という日本政府の意向であることをお伝えさせていただきます。
ここに重ねて敬意を表します。
駐華日本大使館 参事官
森島 守人
1938年5月24日付、教皇庁国務長官宛シャルル=ルー駐バチカン仏大使書簡
ローマ 1938年5月24日
聖座国務長官猊下(*教皇庁の外相にあたる職責)
フランス大使館はさる4月15日付猊下宛の文書(第4号)において、正定府で日本軍の兵士たちが起こし、8人の宣教師を死亡させた襲撃事件の賠償を得るため、在北京のフランス代表が取った措置について言及しました。そして、この措置により約150,000ドル(*米ドルなら約51万5千円、中国ドルなら15万円に相当)の賠償金の支払いを日本側に約束させえていたことを述べました。
次に大使館は駐華ローマ教皇使節(*2代目駐華教皇使節マリオ・ツァニン大司教のこと)が介入し、事件解決の補償金の名目で不十分な額の支払いを受け入れたことにより、上記の交渉の妥当な結果が損なわれたことに遺憾の念を示しました。このたび、本国外務省から事態をどのように終結させるつもりだったのか通知が参りましたので、猊下に謹んで詳細をご連絡申しあげます。
パリからの指示にしたがい、在北京フランス代理公使(*ラコスト書記官のこと)は日本大使館参事官に対して、参謀本部(*北支那方面軍司令部)から支払われた補償金が不十分であること、また進行中の交渉が妥結前であったにも関わらず、フランス大使館の知らぬ間にカミッソ司教(*教皇使節秘書官)に24,000円 (*約7千ドル、シャネ神父が試算した物的損害額と同額)が渡るという不可解な手続きが取られたことを指摘いたしました。この額は不十分極まりないばかりか、全くもって襲撃を受けた団体に対する補償金ですらありませんでした。
被害を受けた宣教会と日本大使館への敬意から、フランス代理公使はこの仮払いのことを口外しませんでしたが、日本の代表に対して、その狭量な態度にこれ以上秘して耐えることはできず、また司教および宣教師の神父たちの虐殺は中国のみならず欧州、とりわけパリやデン・ハーグ、ローマで大きな波紋を呼んでおり、日本軍の名声に非常に不都合な印象を与えかねないことを指摘いたしました。
長い話し合いの末、正定府の宣教会の物的損失は日本の参謀本部が全額支払うこととなり、フランス代理公使は4月初めに以下の額を受領いたしました。
物的損失の賠償として14,865ドル
正定府に記念碑を建立する費用として1,000ドル
宣教会の慈善事業への寄付として10,000ドル
計25,865中国ドル (*1中国ドル=約1円、約2万6千円が追加で支払われた)
さらに、日本大使館は10月9日の事件について遺憾の意を表す公の書簡を在北京フランス大使館に送りました。
正定府の事件はこの取り決めを最終として決着済みとすることが合意されました。日本側の強情さとカミッソ司教の先導で、双方の誤った威信による袋小路に陥っていた事件でしたが、フランスによる布教保護職はかくして立派に解決をもたらしたのでありました。
このような詳細な顛末を国務長官猊下にお伝えすることで、フランスが中国のカトリック宣教会を常にきちんと保護していることに聖座もご満足くださることと確信しております。
敬具
(コピーのため、署名なし)