日本側記録に見る犯人
現代人の視点からすると、正定事件に関する日本側の記録は驚くほど少ない。確かに北京の憲兵隊司令部や大使館にあった記録は没収されてしまったし、東京の官庁や軍の記録は空襲で焼けたり終戦時に処分されてしまったものも多くある。
事実がどうなのかは今では分からないが、現在残っている記録には外務省欧亜局が1939年(昭和14年)に作成した『支那事變ニ關聯スル在支第三國財産被害調査表』、天津の北支那方面軍司令部が作成した『北支那方面軍状況報告綴』、フランス外交史料館で見つかった正定の憲兵隊報告、並びにフランス側に日本大使館の森島守人参事官が渡した文書などがある。
これらの記録に共通するのは「日本軍による犯行ではない」点だが、その表現、犯人像は異なっていて混乱を招くものとなっている。外務省は「満洲軍」、現地軍は「支那共産匪」、憲兵隊及び森島参事官は「支那敗残兵」による犯行としている。
昨年、雑誌や新聞で報じられた日本政府の見解(日本軍による殺害と認める)の根拠に用いられたのが外務省の記録であるが、そこには「満洲軍ニヨリ殺害」と書いてあり、なぜかそれが日本軍とイコールになっている。これは元々現地で目撃された、満人(または満洲出身者)の武装集団を表したフランス語を直訳したものと考えられるのだが、現代の外務省ではこの武装集団を日本軍に属するものと見ていたフランス側報告を鵜呑みにしたか、満洲国軍、または関東軍と混同した可能性がある。
支那事変における正定攻防戦並びに正定占領に、この両軍は全く関与していないことはすぐに分かる事実である。また、日本軍に多国籍軍は存在せず、正定自体は南九州の郷土師団が攻略しているので、「満洲軍」というものが「日本軍」の一部を指しているものではないと断言できる。
「支那敗残兵」説は、正定城を包囲され逃げ道を失った中国軍将兵が多く広大なカトリック修道宣教会の敷地になだれ込んだことから来ている。そして宣教会で憲兵隊が証拠物品とした青龍刀やダムダム弾(国際法で使用を禁じられていた銃弾)が発見されている。その他、1937年11月19日付のラマカース神父証言では満洲に帰るために金品を要求する馬賊が登場する。しかしながら、生き残るために逃げ込んだところから、人質を9人もとって殺害したり焼いたりしつつ敵中を突破して正定城を脱出したというのは不自然だとするフランス側の見立てはよく理解できる。
北支那方面軍司令部は、捜査が進まず関係各国の不満が高まる中、直接介入して報道部の横山彦眞(よこやまひこざね)歩兵少佐を現地に派遣した。彼が最終的に導き出した仮説は共産主義者による犯行であった。彼は満洲事変においても支那事変においても、対ゲリラ戦や情報・思想戦の最前線にいた将校であり、彼の考えは北支那方面軍の記録として現代に残っている。
このように、現在流布されている話と日本側の記録は全く違うことになっているのだが、そのことはほとんど無視されてしまっているのが現状である。
0コメント