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宮崎正弘の国際ニュース・早読みの連載第4弾

メルマガ、宮崎正弘の国際ニュース・早読みより転載。http://melma.com/backnumber_45206_6623855/〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 【短期連載】「正定事件」の検証─カトリック宣教師殺害の真実(4) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  ♪【短期連載】(4)「正定事件」の検証─カトリック宣教師殺害の真実@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@ 『「正定事件」の検証』の見本が版元から送られてきました。本書は私の著作になっていますが、藤岡先生が書かれたように、これはチームの成果です。企画のスタートから2年で形にできたことを大変うれしく思います。 最終回は、正定事件後の動きについて少し紹介し、当時の事件に対する見方をいくつか見ていくことにしましょう。最後は拙著の内容と読者に対する訴えを述べたいと思います。▼遺留品発見までの動き 事件が北京に伝えられたのは半月も経ってのことであった。宣教師の出身国在外公館から通報を受けた日本大使館では、正体不明の匪賊(ひぞく)による拉致事件として救出依頼を受けた。しかし現地で実際に動ける軍(北支那方面軍)がいまだ支配が行き届かない点(都市)と線(鉄道)から離れた奥地に捜索部隊を派出する余裕がないので、カトリック宣教会が直接人を送って犯行グループと身代金等の折衝をさせようとしていた。 ところが軍の方では、治安が安定しない地域に第三国人が立ち入ることで余計な面倒が増えることを危惧して移動を制限したので、捜索は現地中国警察と正定にいた日本軍部隊によって行なわれた。日本軍憲兵隊の聞き取り調査も行なわれたが、まったく手がかりを掴むことができなかった。正定のカトリック宣教会を保護する立場にあるフランスは、たびたび救出を催促し、ついに現地軍も教会との合同調査を許可した。折よく日本からは反共使節として田口芳五郎神父(当時、日本カトリック新聞社社長)が来ており、事件担当を命じられた報道部の横山彦眞少佐、ド・ヴィエンヌ天津司教に同行した。 事件から1か月して突然、重要な手がかりが発見された。それも宣教会の目と鼻の先の仏教寺院、天寧寺からであった。拉致されたヨーロッパ人の所持品や着装品、さらには骨や特徴ある金歯までが土中から発掘された。金目の物を漁りに来た近所の中国人から宣教会の使用人たちが奪い返してきたものを検証した結果、それらは拉致被害者の物と断定された。行方知れずのシュラーフェン司教以下9人は全員死亡したものと思われた。そして横山少佐ら調査団が正定に到着した11月17日には拉致事件は殺害事件に変わっていたのである。▼まったく収斂されない事件に対する見方 この時の状況を整理すると、現地では大きく分けて2つの見方が存在していたことが確認できる。最初の北京に通報があった時点で、犯人と目される満人、朝鮮人、モンゴル人の武装集団は「日本軍」の軍服を着ていたので日本軍に所属するか、もしくは関係しているという噂があったが、これを支持する見方と、憲兵隊が出した報告書のように「支那敗残兵」が犯罪をしたうえで遁走したという見方である。第一の見方の派生系として、連れ去られた被害者9人が何らかの罪状で日本軍に処刑されたという噂もある。拉致殺害については、「日本軍犯行説」は当時から日本人以外にとって有力な考え方であり、外交文書には随所にその痕跡が残っている。 しかし、結局、最後まで日本・フランス・カトリック宣教会の事件当事者は、さまざまな噂や憶測を覆すだけの決定的な物証や証言を得ることができなかった。たとえば、在北京フランス大使館のラコスト書記官は推測として、略奪の罪が軍上層部に伝わることを恐れた日本兵がヨーロッパ人を処刑したとする説を上海にいる大使に報告をしているが、ヨーロッパ人と中国人神父を選別して目撃者を多数現場に残した不可解な謎に答えていない。戦中・戦後もフランス外交の第一線で活躍し続けた優秀なラコスト書記官ですら、この程度の推測しかひねり出すことができなかった。 ド・ヴィエンヌ司教は、横山少佐が口頭で日本軍による犯行と責任を認めたと大使館に報告したが、その後の軍と教会が取り交わした示談協定ではまったくそのような内容になっていない。問題になっているのは正定攻防戦の砲撃による物的損害、治安悪化による略奪被害の損害をどう補償するかであった。 北京での慰霊ミサや慰霊碑建立についての取り決めにおいても日本軍による責任ととられないように一定の注意が払われている。もっとも、ド・ヴィエンヌ司教の言によれば、日本を不確かな情報によって非難するより、現実的な補償問題とこれからの軍事的保護の方がはるかに重要な問題であったのだが。 日本軍内にも包囲されて逃げ場を失った中国軍敗残兵による略奪ついでの拉致とする憲兵隊の説と、殺害が明らかになったあとに現地で調査をした横山少佐による共産匪犯行説とがあるように見えるが、いずれにしても元々は正定防衛の任についていた中国軍将兵であることには変わりがない。身代金要求もせず、ヨーロッパ人だけを選別して殺害し、目撃されることなく日本軍警備線を越えて逃走した武装集団の「目的意識」に注目したのが共産匪犯行説であろうと思われる。実際に同じようなキリスト教会襲撃は共産主義者によってたびたび引き起こされていたからである。▼今回の出版の意味 拙著『「正定事件」の検証─カトリック宣教師殺害の真実─』(並木書房)では、列福運動を推進するオランダのシュラーフェン財団が持ち出してきた証言や手紙の断片だけでなく、「日本軍犯行説」の不確かさをフランス外交文書と日本側記録から検証している。とくに殺害の動機とされて流布された「慰安婦動員阻止・身代わり」説については徹底した反駁をしている。加えて支那事変に至るまでの中国大陸の複雑な状況を、できるだけ分かりやすく解説することで当時の人々の感覚に少しでも近づけるように努めた。さらに公正を期すため外交文書や修道院報告を掲載した。 この研究は、本を出版し成果を発表することがゴールではない。これは闘争の始まりなのである。拙著はそのための小さな武器に過ぎない。あとは日本人自身が自らの問題として疑問を持ち、世界に対し公正さと正義の実現を求めて奮起しなければこの問題は解決しないだろう。確かに「福者」の認定について我が国が介入することはできないが、正定事件の検証と自らが考える真相を世界に訴えることはできるはずである。バチカンが正当な判断を下したとしても、現在の通説に対抗したものを打ち出して克服しなければ、今度はユネスコや教科書など別の舞台で日本の名誉を汚す運動が続いていくからである。 我々は自由な国民である。外国の操作によって過去に束縛される奴隷になってはならない。生まれながらにして不名誉を背負ういわれはない。私はこれからの世代のためにも戦勝国が望む呪縛から解放される明るい未来を夢見たい。この夢を大勢の日本人が共有し、自信をもって闘争に努めるなら、必ず真の自由と独立は日本人のものとなるはずだと私は信じている。 最後のなりましたが、メルマガ読者の皆様、4回にわたり連載にお付き合い下さり、誠にありがとうございました。また宮崎正弘様には重ねて御礼申し上げます。

宮崎正弘の国際ニュース・早読みの連載第3弾

メルマガ、宮崎正弘の国際ニュース・早読みより転載。http://melma.com/backnumber_45206_6623625/〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜【短期連載】(3) 「正定事件」の検証─カトリック宣教師殺害の真実〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜   ♪【短期連載】「正定事件」の検証─カトリック宣教師殺害の真実(3)これまでの話: 今から80年前、中国の正定という町で起きたヨーロッパ人宣教師の拉致殺害事件、いわゆる「正定事件」があった。事件は日本軍が町を占領したその夜に起きた。そして当時、犯人も動機も不明なまま未解決となったのだが、現在、200人の婦女子を日本軍の魔手から守ろうと宣教師たちが身代わりとなって処刑された英雄譚となってヨーロッパや中国で流布されている。そればかりでなく「福者」という、カトリックの称号を得るための審査がバチカンで進行している。 創作された英雄譚に利用された、日本軍将校の手紙による「身代わり」殉教の根拠付けはいい加減なものであった。彼は支那共産匪の犯行であると結論付けした事件の処理担当者なのだから。当時の記録や報告、正定を占領した部隊の動きをよく調べもせずに、簡単に一方的な主張を受け入れ、勝手に代表して謝罪してしまう日本人がいた。これにより、日本側も(当然調べた上で)現在の説に同意したものと見なされているのである。 今回は犯罪が起きた2日間について、当日における日本軍の動きを含め簡単に述べる。現在の通説では不明だった動機が先に来ているので、不都合な事実は無視されている。これは犯罪の分析でしてはならない過ちであると私は考える。では、史料を元に事件を概観しよう。▼事件当日の日本軍の動き 事件の概要を述べる前に、容疑をかけられている日本軍部隊の大まかな動きを知っていただこうと思う。これを念頭に置いて事件を眺めてもらうと、特殊な戦場の実態が浮かび上がってくる。 1937(昭和12)年10月8日に始まった正定城の攻防戦は、翌日の城内掃蕩をもって終わり、正定(せいてい)と石家荘(せっかそう)の間を流れる滹沱河(こだがわ)を挟んで日中両軍は対峙した。事件が発生した9日夜は、翌10日に予定されていた渡河作戦のために第6師団は徹夜で準備に追われていた。 歩兵戦闘部隊のほとんどは正定の城壁外に、各級司令部は主に南門や東門の城壁上に位置し、大隊規模の砲兵部隊が数個、城内に入って攻撃の準備に取りかかった。対岸の中国軍に対する攻撃は予定通り10日の昼過ぎから行なわれ、この日のうちにすべての師団が中国軍第一戦区の滹沱河防衛線を突破して交通の要衝である石家荘を占領した。▼拉致殺害事件の概要 正定(当時の人口は約2万人)のカトリック宣教会は城内に広大な敷地を有し、中には塀と門で仕切られた4つの修道院、病院、学校、工房などの施設があり、家畜も飼っていた。住人は約千人もおり、正定という町の中にまた別の町が存在するかのような体であった。2週間前に日本軍が攻略した保定や近隣の地域から正定のカトリック・プロテスタント両宣教会に約1千から2千人の避難民が殺到していたが、正定城が8日夜に包囲され、9日午前まで続いた市街戦・掃蕩戦の結果、避難民に加えて中国軍の敗残兵が多く宣教会になだれ込んだ。史料では壁を乗り越え、隣家の屋根を伝ってくるなどの必死な様子が伝えられている。すぐに略奪が始まった。学校や工房、男子修道院から金目のものや食糧が奪われ、破壊も行なわれた。その際、日本軍に通報しようとしたと思われる工房の職工長が略奪者たちに射殺されている。トラピスト会士で当時宣教会に避難していた老齢のアルベリック神父(ヨーロッパ人唯一人の生存者)は、昼頃略奪者の襲撃を受けた。証言によれば満人、モンゴル人、または朝鮮人のような風体の犯人であったといい、北京のフランス大使館では最初の通報があった段階からこの情報を掴んでいた(ただし、日本軍に属する者たちと誤認してだが)。この外国権益の領域に日本軍は何度か立ち入っている。部隊指揮官、または参謀クラスの訪問・視察、そして賊が壊した門戸の修復のためである。病院では軍医の派遣と医療品の提供が約束された。この日断続的に行なわれたという略奪と破壊の現場に彼らが直接出くわすことはなかった。 日が落ちた午後6時頃、南の通りに面する正門に10人ほどの武装した賊が現れた。軍服を着て武装はバラバラ、なかには民間人用の帽子をかぶった者までいるという怪しい集団が門番修道士を脅して宣教会に侵入。まずは中国人の尼僧院に立ち入った。この後、彼らは避難所やほかの修道院でさまざまな略奪行為を働くのだが、ここでは何もせず出て来るのである。これは大変重要なことである。 1時間ほどして賊は食堂に現れた。食事中のシュラーフェン司教ほか、ヨーロッパ人8人は、中国人神父たちの目の前で拘束され連れ去られた。1人の中国人神父が途中までこれに帯同した(不思議なことに彼は逃げ出すことができたという)。司教は彼らに要求は何かと尋ねたが答えはなかった。これも大変重要なことである。 その後、賊は司教たちを連行する組と、金庫を捜索する組、ヨーロッパ人修道女がいる尼僧院に向かう組に分かれ、それぞれ中国人神父を案内役としている。尼僧院では対応した修道女を賊が脅してしまったため、その門戸は開かれることがなかった。ここでも拉致はおろか略奪もなかったのである。そしてこれは、司教たちが連れ去られたあとに、司教たちから離れた場所で起きた。極めて重要な事実である。 賊はわざわざ中国人神父たちに目当てはヨーロッパ人であると告げている。そして会話はすべて流暢な中国語(熱河訛)で話されたという。司教たちが連れ去られた宣教会内の略奪は翌日も続いたが、夜には前日の賊がまたやって来て中国人神父と接触している。彼らはヨーロッパ人神父たちの部屋を略奪・破壊して去り、二度と戻ってこなかった。 1か月後、突然、隣の天寧寺から拉致された司教たちの所持品や衣服の一部、骨や歯などが発見された。それで宣教会も現地警察も日本軍も拉致被害者は全員死亡したものと見なした。▼犯人は不明、動機も不明  女性目的の犯行という説を最初に打ち出したのは、プロテスタント宣教会のヒル牧師であるが、事件はカトリック宣教会で起こったことだから、当然彼は現場にいなかったし、前述の通り、犯人たちの行動にもヒル牧師の説の裏付けとなる要素は何もないのである。 ゆえにこのことは当時、関係国およびカトリック宣教会ではまったく取り上げられなかった。金銭目的のようでありながら、身代金要求もなく、司教たちの所持品はほぼ手つかずのまま埋められていた。日本軍の占領下に入ったばかりの正定で、第三国人の殺人をする必要性があったのは誰だったのか? 共産主義者犯行説はこの疑問に答えるかたちで登場するのである。(次回に続く)

宮崎正弘の国際ニュース・早読みの連載第2弾

メルマガ、宮崎正弘の国際ニュース・早読みより転載。http://melma.com/backnumber_45206_6619837/〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜【短期連載】(2) 「正定事件」の検証 ─カトリック宣教師殺害の真実─〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  ♪ このたび、正定事件に関する言論の場を与えて下さいましたこと、この場を借りて御礼申し上げます。事件の真実を究明し、日本人の名誉を守るという目的を達成するためこれからも励んで参りますので、ご支援ご協力宜しくお願い申し上げます。(峯崎恭輔)▼正定事件は「未解決事件」である まず、正定事件は当時誰にも解決できなかったという事実を押さえておく必要がある。そして、日本軍の犯行を主張するシュラーフェン財団などは、何一つとして確実な証拠を提示していないことを知ってもらいたい。正定事件は現代に至るまで「未解決事件」なのである。 第一に、拉致実行犯が日本軍将兵であることは当時も現在も証明されてはいない。第二に、200人もの慰安婦を宣教会から日本軍が連れ出そうとした1次史料はまったくない。第三に、司教らが宣教会内にいた婦女子の身代わりになった事実はない。第四に、9人の死亡状況と死亡場所が完全に明らかになってはいないのである。 今回の研究書の執筆にあたっては、財団が当然分析済みであるはずのフランス外交文書並びに現地の主要な修道院報告、財団が作成した事件概要で示したいくつかの手紙の断片について分析・検証をしている。また日本陸軍の記録も正定に関するものは徹底的に調べたつもりである。しかしながらどうしても財団側のストーリーを結論とすることはできなかった。むしろ当時の文献や証言などを調べるにつれ、共産主義者の存在が重要性を帯びてきたのである。 当時、「共産主義者犯行説」は日本側で事件処理にあたった横山彦眞(ひこざね)陸軍歩兵少佐(陸士32期、最終階級:中佐)の見解として、彼が所属した北支那方面軍司令部で作成された「北支那方面軍状況報告綴」において『支那共産匪ノ為殺害サル』と結論づけられている。▼バチカン教皇庁の結論が出る前に…… フランス外交文書では、プロテスタントの牧師が横山少佐の発言として共産主義者を取り上げている。しかし、そこではわざわざ「日本軍に所属する」共産主義者としている。これはおそらく恣意的な付け足しであると考えられる。もちろん日本軍将兵の中に一人も共産主義を信奉する者はいなかったと言うつもりはない。しかし、当日の軍の動きを見れば、2日にわたって宣教会(東京ドーム2個分ほどの広い敷地内に修道院関係の建造物が数多くあり、さらに戦禍を避けて千人以上の避難民が殺到していた)内で略奪を行ない、宣教師たちを拉致し、その痕跡を消し去る余裕のある部隊のなかったことは容易に分かることである。 しかしながらシュラーフェン財団を中心とする研究者は、占領したのが南京を攻略した第6師団と知るやまったく詳細な部隊行動の検証を行なわず、一方的な思い込みでいわゆる南京大虐殺の先触れとなる事件として位置づけてしまったのである。さらにバチカンの秘密文書の中にあったという横山少佐の手紙が被害者の殉教を認めるものであったことを証拠のように扱っている。これは少佐がカトリックの信徒であったという誤解から来る過剰な思い込みによるものである(おかげで日本でもウィキペデイアはじめ、あらゆる記事において横山少佐はカトリック信徒になっている)。 トラピスト修道院の文書で彼がミッションスクールの出であると報告した箇所もあるが、それは中尉時代の1926(大正15)年、東京で外国語研修をしていることを指していると思われ、ご遺族の証言により横山少佐がカトリックでないことが確かめられた以上、根拠の前提の一つが崩れたことになる。いや、そもそも彼が信徒であったとしても、殉教を認めたからといって、「婦女子の身代わりに」殉教したとは書いていないのであるから、根拠にはなり得ないのである。 最初に日本で事件を報じた「カトリック新聞」(2012年11年4月付け)は、財団が提供した情報を裏とりもせず鵜呑みにした。元大阪大司教も情報をそのまま信じ、代理を派遣して現地で謝罪させた。これはいつか来た道、いつか見た光景ではなかろうか。 非を認めるということは当然ながら責任を負うということである。自らを「正しい日本人」と思い込んでいる人は、他国が歴史問題において日本を裁く時、自らがその被告席についていることを理解していない。そうであるから平気で勝手に覚えのない罪を背負い込んでしまう。大勢の現代日本人をその巻き添えにしてしまう。 歴史戦において我が国は、この自称「正しい日本人」を橋頭堡にして何度も守りを破られてきた。しかしこの「正定事件」はその攻撃の中で最も柔らかい脇腹である。であるからこそ、いま反撃の狼煙をあげ、戦力を集中し攻撃を粉砕するべき時が来たのである。もし、ひと足先に「列福(れっぷく)運動」が成功すれば一転してそこは難攻不落の要塞と化し、半永久的に日本の名誉、先人の働きを傷つける楔(くさび)となり続けるであろう。         (次回に続く)

宮崎正弘の国際ニュース・早読みで短期連載はじまる

メルマガ、宮崎正弘の国際ニュース・早読みより転載。http://melma.com/backnumber_45206_6618499/〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜【短期連載】 「正定事件」の検証─カトリック宣教師殺害の真実(1) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  ♪「正定事件」の全貌と真相を初めて明らかにした研究書*************************                     拓殖大学客員教授 藤岡信勝 まもなく終わろうとして今年(2017年)は、日本近代史の中で日本が関わった戦争について、戦後の東京裁判史観の呪縛を解き放つ歴史研究が画期的に進展した年でした。注目すべき著作がいくつも刊行されました。個別のテーマに関しても、日本人こそが被害者となった通州事件などの解明も進み、中韓との歴史戦において、攻勢的・予防反撃的な成果をあげています。 そして、年末に至って、今年の一連の歴史戦著作刊行の掉尾(とうび)を飾る一冊の本が産声を上げようとしています。それが、 峯崎恭輔著『「正定事件」の検証──カトリック宣教師殺害の真実』(並木書房刊)です。 本書は、正定(せいてい)事件について、世界で初めて、一次史料に基づき実証的に書かれた研究書です。私はこの本の刊行に少しばかり関わった立場なので、本書の意義をぜひ広く、心ある日本人に理解していただこうと考えました。そこで、通州事件80周年の集会でも事務局長を引き受けていただいた宮崎正弘先生にお願いして、著者自身に、本書の内容を少しだけ書いていただこうと思い立ちました。先生にはご快諾を賜り、かくして、日本最大の読者数を誇るメルマガに登場させていただく栄に浴することとなった次第です。 本書の成立は、2015年の秋に都内で開催されたある会合に起点をもっています。その会合では、正定事件の本質と現状が語られたのですが、出席した私は意見を求められたので、「正定事件の真相をなるべく早く本にして出版しなければならないと思う。すでに遅れをとっているが、真実はわれわれの側にあるのだから、あくまで実証的事実に基づいて本を書いて、それを拠点に反論を展開してゆくべきではないか」という趣旨の発言をしました。そして、その場でこの問題に取り組みたいという方にボランティアとして名乗りを上げてもらい、チームをつくって支えていくようにすることも提案しました。 その結果、カトリックの女性信徒として、事件が反日の宣伝に使われつつあることを憂慮し、その思いを共有するカトリック信者の仲間の方々と協力してすでに資料を集めていたNさんを中心に4人のチームができました。やがて、フェイスブックを経由して、著者の峯崎さんと巡り会いました。日本には、地方にお住まいの方で、志をもって歴史の研究に地道に取り組んでいる人々がおられます。これこそ、日本の底力を示す文化的事実です。峯崎さんは、まさにそのような方々のお一人でした。 私が正定事件の詳細を初めて知った会合から丁度2年で、この本が予定どおり誕生し、正定事件80周年の今年の内に刊行に至ったことは、本当に嬉しい限りです。著者の峯崎さんをはじめ関係者の並々ならぬご努力に心から感謝と敬意を表する次第です。 では、早速、著者自身による事件の解明の一端をお読み下さい。(2017.12.4記す)  ♪【短期連載】「正定事件」の検証─カトリック宣教師殺害の真実(1)                                峯崎恭輔 日本軍による慰安婦確保が犯行目的というインチキな学説をもとに、殺害された宣教師の 「列福(れっぷく)運動」がバチカンに対して行なわれています。このままでは第二の慰安婦問題になりかねません──1次史料をもとに「歪曲された悲劇」の真相に迫ります。▼ 拉致殺害された9人のヨーロッパ人宣教師 「正定事件」というカトリック宣教師殺害事件に関する報道がなされてしばらく経った。この間、日本側でも1次史料の分析が進み、オランダや中国の主張に対抗することが可 能になってきた。その嚆矢(こうし)として近く研究書を出版する。 そもそも、この「正定事件」の何が問題なのか整理してみたい。事件そのものは80年もの前、1937(昭和12)年10月に中華民国河北省の正定(せいてい)で発生した、ヨーロッ パ人宣教師ら9人の拉致殺害事件のことである。 7月に勃発した支那事変の過程で、日本軍部隊が「正定」という古い城塞都市を占領した。その夜、城内のカトリック宣教会から正定教区のトップ、フランス・シュラーフェン 司教(63)ほか8人が謎の武装集団に連れ去られ、その後二度と戻ることはなかった。犯人は捕まることなく、後日、拉致被害者全員死亡を思わせる遺留品や遺骨の一部が発見された。そういう事件である。 現代の日本にとって問題なのは、この事件そのものではない。死亡した司教らを顕彰しようと活動するシュラーフェン財団などが、犯罪を日本軍によるものと断定しているだけでなく、200人もの婦女子を慰安婦として日本軍が強制的に駆り出そうとしたものを、司教らが身体を張って食い止め、火に焼かれて殉教したという話をすっかり信じ込んで宣伝していることである。 顕彰活動は「福者」という「聖人」に次ぐカトリックの称号をバチカンの教皇庁から授けてもらおうという「列福運動」に集中していて、そのためにあらゆるメディアやイベントなどの方法を駆使して宣伝した結果、オランダをはじめとするヨーロッパでは事実として語られてしまっている。そしてバチカンを敵対視しているはずの中国もまた、格好の歴史戦の鉄砲玉を見つけて便乗参戦してきているのである。 もし、シュラーフェン財団の主張が事実であるならば、以前櫻井よしこ氏の取材で明らかになった日本政府の姿勢、つまり犠牲者の列福に何の異存もないと言わざるをえないところである。しかし、当時の1次史料の研究が進み、我が国の名誉と国益を損なう事案であることがはっきりした以上、とてもではないがこの現状を見過ごすことはできないのである。(次回に続く)

日本側記録に見る犯人

 現代人の視点からすると、正定事件に関する日本側の記録は驚くほど少ない。確かに北京の憲兵隊司令部や大使館にあった記録は没収されてしまったし、東京の官庁や軍の記録は空襲で焼けたり終戦時に処分されてしまったものも多くある。 事実がどうなのかは今では分からないが、現在残っている記録には外務省欧亜局が1939年(昭和14年)に作成した『支那事變ニ關聯スル在支第三國財産被害調査表』、天津の北支那方面軍司令部が作成した『北支那方面軍状況報告綴』、フランス外交史料館で見つかった正定の憲兵隊報告、並びにフランス側に日本大使館の森島守人参事官が渡した文書などがある。 これらの記録に共通するのは「日本軍による犯行ではない」点だが、その表現、犯人像は異なっていて混乱を招くものとなっている。外務省は「満洲軍」、現地軍は「支那共産匪」、憲兵隊及び森島参事官は「支那敗残兵」による犯行としている。 昨年、雑誌や新聞で報じられた日本政府の見解(日本軍による殺害と認める)の根拠に用いられたのが外務省の記録であるが、そこには「満洲軍ニヨリ殺害」と書いてあり、なぜかそれが日本軍とイコールになっている。これは元々現地で目撃された、満人(または満洲出身者)の武装集団を表したフランス語を直訳したものと考えられるのだが、現代の外務省ではこの武装集団を日本軍に属するものと見ていたフランス側報告を鵜呑みにしたか、満洲国軍、または関東軍と混同した可能性がある。 支那事変における正定攻防戦並びに正定占領に、この両軍は全く関与していないことはすぐに分かる事実である。また、日本軍に多国籍軍は存在せず、正定自体は南九州の郷土師団が攻略しているので、「満洲軍」というものが「日本軍」の一部を指しているものではないと断言できる。 「支那敗残兵」説は、正定城を包囲され逃げ道を失った中国軍将兵が多く広大なカトリック修道宣教会の敷地になだれ込んだことから来ている。そして宣教会で憲兵隊が証拠物品とした青龍刀やダムダム弾(国際法で使用を禁じられていた銃弾)が発見されている。その他、1937年11月19日付のラマカース神父証言では満洲に帰るために金品を要求する馬賊が登場する。しかしながら、生き残るために逃げ込んだところから、人質を9人もとって殺害したり焼いたりしつつ敵中を突破して正定城を脱出したというのは不自然だとするフランス側の見立てはよく理解できる。 北支那方面軍司令部は、捜査が進まず関係各国の不満が高まる中、直接介入して報道部の横山彦眞(よこやまひこざね)歩兵少佐を現地に派遣した。彼が最終的に導き出した仮説は共産主義者による犯行であった。彼は満洲事変においても支那事変においても、対ゲリラ戦や情報・思想戦の最前線にいた将校であり、彼の考えは北支那方面軍の記録として現代に残っている。 このように、現在流布されている話と日本側の記録は全く違うことになっているのだが、そのことはほとんど無視されてしまっているのが現状である。